憧れの取り込み

中学生のころ,筋肉質な男の裸体絵を描くのにはまっていたことがあって,夢中で描いていたら授業中だったので先生に没収されたんです。

それはタイミングの悪いことに,悪ノリした友人が男性の一物を書き加えた後でした。

僕はあえてそこは避けていたのに。書きたいのは筋肉の造形であって,そこは主眼じゃなかったのです。

それはまあ他愛もない思い出なんですが,僕には理想的な肉体への憧れがあるのかもしれません。

それを絵にして描くくらいには興味があったんですね。

多分絵にかくことで,憧れる対象を「取り込もう」としていたんだと思います。憧れる対象になりたいという欲望が,それを真似したり,分析したり,描いたりすることにつながる。それやって自分に「取り込もう」としていたんでしょう。

 

この「憧れの取り込み」という考え方は,大泉実成さんの『オタクとは何か』(2016年,草思社)で語られていた内容を参考にしました。

人は,自分に欠けていて欲している「何か」を持っているものにあこがれる。その何かとは,筋肉質な肉体の持つ「力強さ」だったり,猫の持つ「かわいらしさ」だったりする。

その部分について真似したり分析したり対象と触れ合うことで,その性質を自らが取り込んで体現できるようになろうとする。人はみな何かしらを対象にしてそれを行っているが,特にそれを物語やゲーム作品に出てくる架空の人や物事に対して行っている人たちが「オタク」と呼ばれているのではないか。

大雑把ですがそういう内容だったと思います。

 

 

では,さいきん憧れているものは,しいて言えばなんでしょうかね。

なんか恥ずかしいですね。

憧れって,理屈で繕えない嘘のつけない変えられない部分なので,その分否定されたり批判されると逃げ場がなくて,表明するのに勇気がいりますね。

だからこそ,人に言えないニッチな趣味や好みは表明するのに価値があるし,世間的に認められやすいものを好きだと表明することには白々しさがある。というのも,批判否定の可能性をあらかじめ封殺しようとしたのではないかと勘繰ってしまうから。

 

ところで人からよく食べるのも話すのも長いといわれます。

よってここらへんで終わります。

 

 

追記

このスラッシュ型の句点(,)読みづらいですね個人的に。

設定どうやってかえるんだったかな。

ただ眠いから今日は寝る。