小説「ヨーロッパ旅行の境界線」
チェコやドイツを地続きに移動していると、ヨーロッパの実現した移動の自由を肌で体感できる。
電車内で優雅なコーヒーブレイクを楽しんでいる間に、国境をあっさりと通り過ぎている。
だがしかしだ。
いくら移動の自由が実現したからって、次元までまたぐ必要はないんじゃないか。
――――――――――
いま車窓の向こうに広がるのは、さながら銀河鉄道の夜を再現したかのようなファンタジックな情景の数々だ。
次元を超えた人間など、少なくとも人類史においてはまだ存在していなかったと記憶している。それとも僕が不勉強なだけで、割とポピュラーな現象なのだろうか。
ともあれ、僕の前には厳然として奇妙な現実が迫ってきている。
これが堅い椅子に揺られながら寝たせいで見ている明晰夢だとしたらまだ救いがあったのだが。
前に座る虹色の毛並みの猫が言う。
「まあ、ともあれ君はこうしてここにいるわけだニャ。しのごの言っても始まらないニャ。ほらあそこにはハプスブルグ家の令嬢が」
「えーっとちょっと黙ってくれるか。お前なに急にしゃべりだしてんだ。猫だよな」
「いまさら元居た場所の常識を引っ張り出しても無意味だニャ。むしろ語尾をかわいくしてる分歩み寄ってあげてるのを感謝してほしいニャ」
「いや、虹色毛並みの人間サイズの猫に人語を話されてる時点でその程度の妥協は意味を失ってるからな」
「そうかい? じゃあ気にせず話すよ」
「……裏切られた気分だ」
「それは理不尽、だニャ?」
「もういい、普通にしゃべってくれ。日本語なだけましか……」
「それこそハプスブルグ帝国時代の王朝の話し言葉にすることも可能だよ」
「結構だ。現代ドイツ語だってあやしいのに」
「そうかい」
「はぁー、ぼくはいったいどうなっちまったんだ」
「次元の臨界をごく穏便にシフトしたんだね」
「そんな穏便さはいらない。入管でいくら手荒に身体検査されてもいいから元の国に帰りたいよお」
状況を説明する。そうでもしないと僕の精神も早晩次元の壁を越えて次なる世界に旅立ってしまいそうだから。
まず乗ってるのは同じく列車のなかだ。でも現代的ないかにも高速鉄道みたいな内装じゃなくて、もっと牧歌的な木でできた古い汽車が引くような列車に乗っている。
それだけ見ると、寝てる間に別の列車に乗ってしまったのかと思うが、明らかに乗客がおかしいし、窓の外の景色もおかしい。
まず目の前の虹色猫人間である。そもそも猫なのかこいつは。しゃべるしちゃんとお行儀よく手を膝において椅子に座ってるし。
着ぐるみと言われた方が納得できる。
しかし呼吸で上下する胸やしゃべるたびに見える口の中は着ぐるみや特殊メイクで説明できるレベルの生々しさではない。
「ためしになでてみるか?」
猫人は急にそう聞いてきた。僕はさっきから感じていた疑念をぶつけてみる。
「お前さ、僕の考えてることわかるの?」
すると猫人(以下面倒なので「彼」と呼ぶ。彼女かもしれないが、声からは男性っぽい)は、にゃーと猫らしく鳴いてこう言った。
「この空間では個人と個人の分離なんて考え方はナンセンスだよ。そもそも三次元的な物理法則の支配する場所じゃないからね。今君に見えている様子も、君の脳が認識の破綻を起こさないようにぎりぎりで作り上げた幻想なんだから」
「」
「絶句してるね。頭のなかは真っ白というより疑問と恐慌でパンク気味ってところか」
「僕の頭がパンクしてようがハードコアしてようがどうでもいい。この状況をもっとちゃんと説明してくれ」
「そうはいってもね。これでも君に理解できるレベルに言語化されているんだよ。それは今見えてる景色が幻想なのと一緒。言葉も加工されているんだ。もちろん君の頭の中で」
「それじゃあ、これは僕の夢みたいなものじゃないか。他者性を感じても結局は僕が構築した幻想なんだろ?」
「うんニャ。幻想とは言ったけど、虚構とは言ってない。あくまでこの次元におけるイデアがあって、それを映す際に君の脳が理解可能なように編集してくれているのさ」
「じゃあ、お前も実際は虹色の等身大猫人間なんかじゃなくて、なにかしらの実体を別の形で持ってるってことなのか」
「そう考えてもらっていいよ。ただ、実体という考え方は理解を誤るかもね。そもそもさっき言ったように、ここは三次元世界的な分離に基づいてはいないから。なんなら因果律も過去から未来、原因から結果のカタチでは存在していない。そういう意味では四次元的にもここは君からすれば無茶苦茶の世界だ。僕が君の考えてることがわかるように見えるのもそこに理由がある」
「理由とか僕とか君とか、それ自体因果律や個体の分離を示してるじゃないか」
「きみは鋭いね。でも言ったろ、これは君向けにわかるようにした言葉に直してあるんだよ。別に三次元世界のルールに縛られた言語でも五次元や六次元の話はできただろう?」
「そういう話をしてたのは僕よりずっと頭のいい一部の人だけどな。つまり声は空気の振動っていう物理的な方法で、言葉は前から後ろへの時間の流れのルールに縛られてるけど、それを用いてもっと上の次元の話をすることはできた、ってそういうことか」
「ま、そうだね。理解が早くて助かる。それすら君向けに最適化して言語化されているからだけど。ともかく、話を戻すと、この世界は時間の流れは過去から未来に流れていないし、物理的に存在が個々の個体に分離されているわけでもない」
「やけに宗教的になってきたな。そうはいっても時間はこうして前に進んでるぞ。個体だってお前と僕でやっぱり分離して見える。椅子やこの床だって、僕の今はいてるパンツだって、僕からは分離してる。いったいこれをどこまで幻想で片づけるつもりだ」
「なかなか勇気があるね。存在の根源を解いたら、君を守ってた幻想のベールがはがれてしまうかもしれないよ?狂ってもいいのかい?」
「もうここにいる時点で狂ってるようなもんだ。まだ僕はこれが自分の統合失調的な幻覚かリアルすぎる明晰夢だという線を捨ててないしな。長旅と一人旅のストレスがピークに達したのかもしれん」
「そう理解しておくのも、一種の防衛措置になるかもね。では答えよう。まず時間の流れについては、行ったり来たりしてる。現にこの会話は何度も繰り返されている」
「なに? ばかな。僕は今この瞬間にアドリブで話してるぞ」
「そういう気がしてるだけだよ。たとえるなら僕らのこの会話も君の世界でいう小説のように、すでに書かれて存在している。そしてそれが何度も読者によって読まれている。作中の登場人物は何度読んでもそれが初めての会話のようにふるまうし、実際そう信じている。なぜならそのように書かれているから。文章の中に、自分が文章の中の存在だと気付く描写がない限り、登場人物はその物語の瞬間瞬間を表現したまま無限に存在し続ける。主観においては時間の流れの中にいるようなのに、それがすべて静止した存在としてすでにあるというところが、文字に書かれた登場人物と、この次元に居る僕たちの相似した点だよ」
「くそ、頭がこんがらがってきやがった。つまりなにか、僕のこのリアルタイムで交わしていると思い込んでいる会話も、すべてすでに書かれてあって、それをなぞってるに過ぎないのか」
「そうとも言える。すくなくとも、時間の流れがオリジナルの現在を生成しながら未来へと進んでいくようにはできていない」
「まあわかったことにしておく。それで、物理的に分離していないってのは? 実際の僕たちは溶液みたくとけあっているのか?」
「そう理解してもいいけど、実際には元々分かれてすらいない。ここでは一方向の時間が流れていないといったけど、それは個々が分離していく因果も存在しないということなんだ。君の世界では因果律のなかを一方向に時間が進むから、個々の存在は物理的に枝分かれして別々に空間を占有していった。それはビッグバンと君たちが呼んでいる事象からしてそうなんだ。原子やそれよりもっと小さいモノたちがアプリオリに分離して存在していること。それらが分離しているからこそ、互いに反応や衝突を起こして巨大な奔流になった。君たちの居た世界は、始まりからして存在の分離と衝突をエネルギー源にしてドライブしているんだ。その原理はどんなに君たちが宇宙と呼んでいる領域が広がっても変わらない。原理はひとつ。分離と衝突さ。そしてこの世界はその原理をはじまりから共有していない。根本的に異質なんだ」
「ここには原子も分子もないのかよ」
「そもそもそういう他の空間と分離した個別の存在が予め存在している状態っていうのは、すごく特別なことなんだ。それはあくまで君の居た宇宙が『分離』を根源の原理として生まれてきたということの結果に過ぎない。少し紹介すると、分離以外にも『交替』や『反復』を原理にした宇宙もあるんだよ。それはあえて言葉を当てれば、ということだけどね。少なくとも、君が日本語で思いつく形容詞を原理にした宇宙はすべて存在しているよ」
「ここまでほとんどついてこれてる自信はないが、その話だけは気になるぞ。ならあれか、『美しさ』とか『もぎたてほやほや』の宇宙もあるのか」
「なんでその形容詞をえらんだかわからないけど、まああるだろうね。さすがに言語化は無理だけど。あまりに根源的部分から違ってる世界のことだから。もっと主観のニュアンスのない、状況説明的な言葉の世界なら説明しやすいかな。例えば今言った『交替』を根本原理にして発生した宇宙は、エネルギーを得た存在が生まれてはそれに代わって別の存在が消える。君の宇宙みたく、保存則に導かれて同エネルギーで変換されるんじゃなくて、純粋に無関連なモノ同士がミクロから大規模まで『まったく何の脈絡もなく』存在と非存在を交替する。実はこの世界では君の世界のようなエネルギー保存則がないから、それこそ漫画みたいなゼロから魔法を生み出すような存在も居るよ」
「すげえ!やべえ!別の宇宙やべえし妄想がはかどる!てか僕の知能指数の低下がやべえ!」
「君の存在の根源にかかわる説明だったからね。『意識』が存在の基盤を守ろうとして理解を拒絶しているのかもしれない」
「はあ~。話を聞いてる限りだと、僕、帰れないんじゃないの?」
「それについては心配ないよ。リスクがないわけじゃないけど。そもそも、根源的な法則が異なるこの次元の世界で、なぜ君はもとの自我を保ててると思う?」
「うーん、さあ?」
「いよいよ自我の防衛機制が強まっているね。それはね、人間の意識というものが三次元宇宙のなかの法則から生まれてるのにもかかわらず、半分それを脱しているからなんだよ」
「おいおい、ちょっと急に回復して口をはさんで申し訳ないけど、意識も脳の電気信号と血流と化学物質の相互作用の産物だろ? 思いっきり三次元的存在じゃねえか」
「電気信号その他が三次元の法則のもと存在しているのはその通り。でもその上を走る意識は、三次元の法則に完全に縛られてるわけじゃない。じゃなきゃこんな風に三次元の外の存在を意識が認識することも出来ないよ」
「うーん、でもやっぱ意識の基盤は化学的、つまり物理的だぜ?」
「それこそさっきの話に戻るのさ。君は三次元法則にがちがちに縛られた、空気の振動や紙に書かれたインク文字で、三次元の外のことについて理解できる。それは、情報を運ぶ乗り物と、情報そのものが指し示す存在が、別の次元に存在できることを示している。そして意識とは、脳内信号や化学物質という三次元の乗り物を用いて、上の次元を表現できるものなのさ」
「しかし、それでも意識自体が高次元の存在ってことにはならないだろ? 意識が高次元のことを言語化して『指し示す』ことはできても、それをやってる意識自体は依然として三次元の存在だろ? お前の言う言葉を借りるなら、情報の乗り物は三次元かもしれないし、情報の内容そのものは三次元の物体には還元できないけど、情報を伝えてる存在は依然として三次元の存在だろ? 結局意識も化学物質や電気信号がなきゃ存在できないじゃんか。それは三次元に縛られた存在、つまり三次元の存在ってことじゃないの?」
「そこは残念ながら完全に納得できるようには説明できないね。ただ、意識を化学物質や電気信号の三次元的な実体では100%還元はできないと、無根拠ながら言っておくね。それでもむりやり説明するなら、いくら脳をほじくってもそこには意識が認識した外の次元を表すものはみつからないってことを言うしかない。それを認識できるのは意識だけなんだ。意識の『乗り物』は完全に三次元的な血流や電気や化学物質に還元できるけど、それが載せてる情報そのものがどこから来たのかは、はっきり言えないはずなんだよ。単なる化学物質の反応の連鎖が意識だとしても、そこにゼロから知識という名の情報が生まれてるのは確かなんだ。そしてそれを可能にしているのは言語っていう『記号』という存在なんだ」
「言葉が三次元を超えた存在だっていうのか?」
「そういうこと。もっと言うと記号と記号操作がね。記号は次元を超える。それは『言及』という形をとってね。記号操作によって導き出された情報をもとに、三次元世界の外に『言及』する。ここはすでに三次元世界の外だけど、まさに今僕らが言葉を使ってしていることが『記号操作』=考えることと、『言及』することなんだ。さっきの話に引きつけて整理すると、君たちの頭には三つのレイヤーが存在する。一つ目は純粋に三次元的存在たる脳内物質・電気信号。二つ目は、三次元の仕組みがないと存在できない三次元に縛られた存在としての意識。三つめは、意識が活動するときに用いる言葉を含む様々な表象たち、つまり記号だ」
「それが僕が元の世界に帰るのとどう関係があるんだよ」
「要はね、記号は三次元的な制約がなくて自由なんだ。早い話が、想像さえできればすなわちそこに記号としてはもう存在している。必要なのは想像力だけ。三次元世界ではそれは頭のなかだけのことだけど、物理法則の異なるこの次元世界では、想像はそのまま世界に影響する。つまり、信じて想像すれば帰ることができるのさ。意外と簡単だろ? 君の居た世界は『分離』の原理で作られていたから、強固な分離の原理に阻まれて、頭の中のアイデアを外に生み出すのに物理的・工学的な変換を必要としただろ? でもこの世界では想像とそれ以外を隔てる物理的境界、分離は存在しない。あとは君が信じ切れるかどうかだけさ」
「長かったし、ところどころわからんとこもあるけど、とにかくそう信じれば帰れるんだな? リスクってのは?」
「帰らないと思ったら帰れなくなっちゃうことかな。まあ、想像させるとそれだけで影響しちゃうから、余計なことは気にしないで」
「そういわれたら余計気にするだろ……。もしここで僕が死にたいとか考えたらどうするんだよ」
「それをわざわざいえるってことは薄々わかってるんじゃない? 本当に心の底から思わないと、口だけで何を言っても、腹で思ってなければ影響しないよ」
「だろうな。だってあんた教えてくれたし」
「そうだっけ?」
「未来でな。つか、これが心が読めて見えた理由か。ここの仕組みを理解すると、全部の時間軸からあり得たかもしれない会話の全てが流れ込んでくる。そりゃ相手が何を言いそうかくらい、わかるよな」
「ここにきてぐんぐんここの仕組みを理解し始めたね。ほら、理解なんていう三次元世界なら頭の中限りなことが、実際に現実に影響しだしだでしょ? あとは帰りたい、帰れる、と信じる、いや、認識するだけだよ」
「ああ、正直もうお前がさっきから猫にも見えなくなってるんだ。今見えてる姿も僕の幻想かな?」
「さあ。僕には見えないから」
「うそばっか。全部見えてたんだな。僕にも見えたよ。なんでここが銀河鉄道に見えたのかも」
「……」
「最後にさ、疑問なんだけど」
「それも聞く必要も、もうないけどね」
「でも形は大事だ。帰ったときのために付き合ってくれよ」
「うん」
「まずこの世界はさ、高次元とか言ってたけど、元の世界とは重なってるのか? 別次元ってことと、他の原理の多元宇宙の話は別な気がしたんだけど。」
「たしかに、正確にはここは君の居た世界の三次元世界から数えて6次元や7次元にあたる世界ではない。あとで話した原理の違う宇宙のほうに近いね」
「近いってことはそれとも違うのか」
「ちょっとね。この世界は、局所的に発生した小宇宙みたいなものだから。君の宇宙とは根本的に違う宇宙ではあるけど、同時に他の多元宇宙よりとても君の世界に近いところに発生している」
「僕の世界でいわれてたような高次元ではなく、それ以上にまったく存在を異にする別の宇宙、でもその中では僕の宇宙に近いところに発生している」
「そう。だからこうして多少なりとも親和性をもって語り掛けることもできる」
「なるほどね。最後に、この宇宙の根本原理はなんなんだ?」
「『一体化』」
「……」
「『愛』って呼んでもいいよ。主観的な表現が好みなら」
「愛の世界にサヨナラするなんて、宇宙宇宙言ってた割には最後はずいぶん詩的だな」
「宇宙は詩なんだよ。なんせ形容詞一つからつくってるくらいだから、究極の散文詩かも」
「じゃあ、行くわ」
「うん。旅行楽しんでね」
「そういえばそうだった。なんかスケール感がくるうな。多元宇宙からヨーロッパか」
「ばいばい」
「じゃあな」
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肩をゆすられて目を覚ますと、車掌が終点についたことを教えてくれた。
かたくなった体をほぐしながらホームに降りると、携帯にメッセージがあった。
高校で一緒に物理の勉強をした友達の訃報だった。
僕はすぐ帰ることに決めて、その街から一番近い空港を探した。
夕闇の中で、街並みも見ずにスマホの画面でフライトを検索しながら歩きだした。
列車の中で長い夢を見ていた気がしたが、それも街並みと一緒に流れていき、消えていってしまった。