飲み

飲み会でいつも思う。私は自慢ばっかりだなと。

褒められたいのだろう。

別にそこまであからさまに自慢してるわけではない。

まわりにもそう受け取られてはいない。

しかし自分の主観としてはそう。

だから、なんかなにやってんだろうという気は残る。

頭の片隅で自分が評価されるような話がこぼれてこないか聞き耳を立てている。

なんか健全じゃない。

終わった後にもやもやが残るのは、愚痴と自慢。愚痴は最初は共感の花が解放感を与えてくれる。でも続くとなぜか閉塞感のような、胸が苦しいような、別に罪悪感とかでなく、単純に部屋が狭くなっていくような天井が低くなるような、感覚に陥る。

 

自慢のむなしさを感じる代表的なところはじつはカラオケ。

カラオケは割と好きだった。行くことも減って声が出づらくなった20代以降は、ちょっと足が遠のいた。

それでも好きだったんだけど、カラオケでうーんとなるのは、やっぱりほかの人と歌うときの選曲。

選曲の方針は三つほどあって、一つは歌いたいやつを歌う。一つはカッコつけるために歌う。三つ目は場を盛り上げるために歌う。

つまり、趣味重視、恰好重視、雰囲気重視。

歌いたいやつを歌うというのはつまり、単純に好きな歌を歌って気持ちよくなること。ある意味シンプルにカラオケの用途そのまま。

メリットは歌と音楽の楽しさを享受できること。リスク・デメリットは、必ずしも歌唱力が追い付いていないと醜態をさらすかもしれないこと。そして周りが知らない曲だとポカンとされてしまい、気まずかったり盛り下がる可能性はある。

例えば自分が楽しくても、歌がドインディーな地下アイドルの曲でしかも歌えてない、とかだとなかなかコメントがしづらい。

 

恰好重視は、音楽好きを自称している痛い部分を前面に出すとやりがち。これは知ってる曲の知識を披露して悦に入るのが主観上の目的。

メリットというか、これをやりたくなる理由は、自分の場合、「こういう音楽がかっこいいんだ」「それをしってる俺」みたいなそういう感覚。歌唱力がついていってなかったり、期待に対して周りの反応が薄いと勝手にがっかりして恥ずかしくなる。

ただやっぱり、積極的に恰好つけないにしても、個人的に「ださい」と思ってる曲を強いては歌いたくないし、せっかく歌うならかっこいいと思われる曲が歌いたい。という欲があるから、これは見過ごせない部分。服とおしゃれのジレンマに近いものがここにはある。かっこつけたいけど、おしゃれと思われたいけど、それを前面に出して自己顕示するのはおしゃれじゃない、という。オシャレという作為を講じながらも、「こなれ感」として作為を感じさせない自然さがある、という背反を実現したい。

 

場の雰囲気に合わせて歌うメリットは、おおむね受けがいいこと。ただリスク・デメリットとしては自分が楽しくない可能性がある。

でも、もしほかの人が知ってて盛り上がれそうな曲をリサーチしてストックしておき、その中で自分も楽しく歌えるものを見つけておく準備がとれるなら、これが無難な選択かも。

よほど気の置けない友達と行くのでもない限り、これ以外の上記二つの選曲方針は痛さをさらすリスクがのこるから、これを第一条件に選曲するのはいいと思う。

 

こういうことをつらつら考えてしまったのは、久しぶりにカラオケに行って、よくわからないまま選曲して勝手に自爆した気分になったから。

 

唄、音楽性、場のための選曲。

歌えるようにしておいて、自分が納得の「いい音楽」で、かつ場の皆の乗っかれる知名度や楽しさのある曲。

そういうのを練習がてら準備しておいた方が、自意識と音痴の狭間で恥ずかしい思いをせずに済むはず。

と、ここまでの準備をたまに行くか行かないかのカラオケにするのかという問題もあるが、歌は歌えると楽しいから悪いことないんじゃないか。